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剣道について、なるべく小中学生に解かり易く話したいと思う。
昔、刀を腰に差すことを許されていたのは武士階級である。武士は何時いかなる時でも
敵と戦わなければならない為、毎日武道の修行に励んでいたものであろう。
その武道の中でも1番必要とされたものが、剣術である。剣術は刀を使うので、その刀の操作方法
の技術が必要とされ、おのずから剣術の鍛錬をした。
当時は、敵を倒し、自分を守らなければならない、その為には、いやが上にも鍛錬をしたであろう。
時代の移り変わりと共に、殺人剣から活人剣に剣道と言う名のもとに、剣道を通じて、心身の
鍛錬、心と体をを錬磨するようになって来たのである。
現在は、竹刀を使用して剣道の稽古をしているが、この竹刀は昔は刀から来た物であることを
忘れてはならない。竹刀であっても刀であると考えるべきである。したがって、「刀の操作方法を
大切にしないで、剣道とは言えない」と言う事がまず基礎としての考えである。
この操作方法はあくまでも刀である事を前提とする事によって、刃筋の正しい剣道が生まれて来る。
礼儀について、昔から「剣道は礼に始まり、礼に終わる」と言われているが、現在でもそれは厳しく
守らされている。ところが中には、勘違いをしている者もいる。
礼とは、始めの礼と、終わりの礼をする事であって、稽古中は先生も先輩も無い、打てば良いのだ
と思い違いをしている者がいる。礼と言うものは終始、忘れてはならない。
人間は「礼」と「儀」を少しでももおろそかにするものでは無い、稽古中といえども礼儀を守るべきであり
これが稽古中のルールと言うものである、このルールはお相手に対し、お願いしますと言う、心が
大切であり、又必要な事である、それがお相手を尊敬する事によって、真の礼儀が生まれて
くるものである。
昔の先生は、お相手の先生方に対し「○○先生に稽古して頂きました」「○○先生に試合をお願い
しました」と言う尊敬の精神が、言葉に表われている、この事を考えると、稽古中に、お相手の胸を
突き、後ろへ下がれと言わんばかりに、突き押しするような事は、実に失礼な事だと思う。
お互いが尊敬しあう事により、立派なそして、楽しい剣道の稽古が出来るのでは無いでしょうか。
剣道の理念について
全日本剣道連盟より、剣道理念として発表されているのは、
「剣道とは剣の理法を通じての修錬による人間形成の道である」と言われている。
この理念は、実に立派なもので、我々は1日でも早く剣の理法を通じて人間形成をしなければならない
ものであるが、剣道は言うまでも無く、実に奥深いものがあり、まるで宇宙の大自然の様な神秘的
なものがある、これが実に不思議で魅力的である。
昔から今日まで、何百何千と言う剣士が、この謎の神秘的なものを追い求めながら道、半ばにして
この世を去られた事でしょう。又、中には剣の道とは、これでは無かろうかと悟りが開きかけた時、
我が身が既に、死の直前であった・・・と言う先生も居られたかも知れない、人生とは長いようで
短いものであろうか。
まず剣道と言うものは、切るか切られるか、すなわち死ぬか生きるかである。
現在では切ると言うのが、打つに事になっているが、この打つと言うことがナカナカ難しい事である。
何でも、竹刀でお相手の面や籠手、胴と当れば良いのだと、やたらに打つがそう簡単に当たるもの
では無い、ではどうすれば当たるのだろうか?。
先人の先生方が、命を掛けて創り上げた事を我々に伝えて下さっている事は、精神面と動作が一致
して機会を打つ事であると言われている。
今日、我々が自分で技を考え出したような事を話しているが、これは昔から剣の術として既に確立
されていたものである。むかしの術を今では技と言い換えているように、動作も変わって来ているのも
当然である、それは、刀と竹刀の違いが表われて来たものだと思われる。
この技の中に打つべき機会として、出ばな、尽きた時、退きばなと3つの許さない所が有る、これは
剣道の、最高の打つべき機会である。ただしこの3つの技は、剣道の表面に現れた「観見の見」即ち
形のみであり、ただこれだけで打てれば剣道は簡単なものであるが「観見の観」即ち、心が大きい
故に奥が深く、神秘的と言える。
昔から、剣道の本に四戒、三殺法、放心とか止心と書いてあり、先生からも良く聞く言葉であるが、
これらは、すべて心の問題である。
出ばなの技でも、打とうとする時に何かに気がとらわれる、そのとらわれたまま動作をすると、お相手に
察知され起こりを見られ、打たれる。
ただ打つ方も、心の構えが無ければ、機会の良い出ばなであっても、打てるものではない、心の構え
とは大切な事である。これを分析して見ると、すべて心が迷うか、囚われるか止まるか乱れるとかこれを
心の隙と言う、剣道のすべては心である。
結局、剣道と言うのは、心の乱れを打つから、お相手がハッとする、これは心に響いた事になる。
心に、響きの有る打突出なければ、本当の剣道とは言えない、又、色々な人がいる。
打つ機会を待っている者、誘っている者、又真っ直ぐ攻めてお相手が慌てて出てくる所を、打つ者も
いる。これらを考えると、お相手を乱れさせ打つ事、お相手の乱れを待ち打つ事と2種類有る。
然し色も結構だが、自分の色でその色におぼれる者もいる。
やはり打つと言うことは、まず構えが大切である。構えは先ず竹刀をお相手の中心に付け、気当たり
を持って攻める事によりお相手の心が乱れて来る場合が多い、この攻めが1番有利であり、大切で
有る、そこにお相手の心に響く打ちで無ければならない。
打つと言うことは、ただ竹刀の速さや体の捌きだけで打ってもお相手の心に響かない打ちではいけない
、やはり、自分の心で打つ事が大切である。そうすればお相手も納得し、参ったと言うだろう。
次には自分が、打たれないようにする事である。
まず、自分の精神と構えを充分にして、竹刀をお相手の中心に付ける、この中心を取ることが、又難しい
お相手を、上下左右から「観見の攻め」で中心を取ることが大切であり、有利である、そこで中心を
外さない、即ちお相手は打って出て来れない、という事は自分の心に乱れも無く、精神も安定する。
お相手から打たれなくなるという事は常に「正しい基本」に忠実である事が必要である。
その基本により技が生まれ、自然に応用技が身について来るものである。従ってお相手からどのような
打突があっても、これに対処する事が出来れば自分に心のゆとりが出来、自信がつき心が静まる、目も
良く見えてくる、どんなお相手と稽古しても、試合をしても、その心構えが違うのである。
心の持ち方は非常に大切な事である。これにより思わぬ技が出る場合もある、体の力が抜けていると
目に見えたと思った隙をすでに打っていた、と言うようになって来るものである。
結局、原点に戻るとすべて基本的な技を身に付けていなければならないと言う事である、基本の重要性
は言うまでも無いが、打ってやろうとか打たれない様にと体を左右に曲げたりする事は姿勢が崩れる事
により基本的に悪い稽古であると言える。
姿勢頭持、腰の入れ方、竹刀の握り方、打突と言った剣道の基本をしっかりと身に付けておくと、自分の
心で、お相手の心を打突する稽古を常にする事が必要である。
「剣道と言うもの、打つ事も、打たれる事も全て心と心との争いである。」
と言う事により、自己の精神修養が、出来るものであると思っている。
最後に水は容器によってどんな形にもなる「水は方円の器に従う」と言う格言があるが、これを剣道に
例えると、何事もお相手に逆らわない、そしてお相手の流れに応じて、自然に内に居る心が「平常心」
と言うのである。問題は打つとか打たれると言う事でなく、剣道の終極の目的である「我も無し敵も無し」
の気持ち、この精神「無」のうちに心の動きが行われている、これが剣道における最高位の物であると
私は思う。
                             2003,5月号  白剣剣報


                    文 一岡正紀                           

無心の剣

 

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